今となっては昔のことだが。
京に斑の外道丸という盗賊がいた。
歳の頃は二十を幾らか越えたあたり。かつては花の如く美しい童であったが、今は垢にまみれ、面影は通った目筋に僅かに残るのみである。
外道丸が名を知られているのは、その悪辣さにある。
夜半、寝静まった頃に押し入り、主人から家人まで例外なく斬り殺す。金銀には手を出さず、いつも奪うのはその日の飯と殺した相手の肉であった。
何とか生き延びた者が言うに、鈍の太刀だというのにあまりに人をうまく斬るものだから、返り血はぽつぽつと斑に飛ぶのみだという。故に、斑の外道丸と呼ばれていた。
元は、比叡山の稚児であった。当時の名は捨てて久しい。随分な名で呼ばれていたような気がするが、最早それだけの記憶であった。
外道丸という通り名でさえ、いつの頃からか呼ばれるようになったのか、とんと覚えがない。
とにかく人を斬り、飯を奪い、人の肉を食いながら生き延びている男であった。
夜も半ばの事である。
外道丸は一仕事を終え、人気のない路をひとり歩いていた。
空には望月が浮かんでいる。路は白く光り、応じて月影は濃い。時折犬の遠吠えが聞こえるほかは、静かな夜であった。
外道丸の擦り切れた直垂には、やはり点々と血斑があった。手には太刀と、今夜の獲物が入った一抱えほどの包みがある。包みからはどす黒い雫が時折、思い出したかのように、
――ぽたっ、
――ぽたっ、
と、路の上に落ちている。
痩せた干魚をくちゃくちゃと咀嚼しながら、外道丸は道端に転がっていた犬の屍体を蹴り飛ばした。
この男にしては、機嫌が良い。
今晩押し入った家には、美しい女と嬰児がいた。一通り愉しみ、そして明日には上等な肉にありつける。
なかなか、運がいい。
そのような事を考えていた。
ふ、と、外道丸は足を止めた。目の前には古びた橋がある。せせらぎのささやかな音と共に、川縁に打ち捨てられた屍体から漂う腐臭が流れていた。
ふらふらと歩いているうちに、こんなところまで来てしまったらしい。
大昔、稚児として比叡山にいた頃、この橋についての怪談を聞いた覚えがある。そんな曰わくのある橋だというに、中ほどに男が一人立っている。
襤褸を着た、蓬髪の男である。まだ夜半は冷え込むが、襤褸は肩と股を隠すのみという有様であった。
外道丸は目を眇めた。自身はあやかしのものなどを信じていないが、世は迷信ばかりが流布している。
そんな時勢に、こんな夜中に出歩く者など、同業者か気が触れたかのどちらかだ。男の風体から察するに、狂人で間違いないだろう。
獲物でもない者を斬り殺すほど、外道丸は人斬りに愉しさを覚えてはいない。通り過ぎ、もし騒ぐようなら斬る。それで、十分。
そう決め、外道丸は橋に足を掛けた。
素足が、ひた、ひた、と音を立てる。
包みの雫はいつの間にか止んでいた。
男は川を見下ろすように俯いている。
双方の距離が縮まり、そしてすれ違う。
外道丸が詰めていた息を吐き出したその時。
ぐぅっ、
と、男が振り向いた。
「いいなぁ、おぬし」
外道丸の顔を覗き込み、おもむろに歯ぐきをむき出しにして、
呵、
呵、
呵、
と、笑う。
そのたびに生臭い息が、むぅっ、と外道丸の顔にかかった。
「なんだ、爺」
柄に手をかけ、外道丸は荒々しく怒鳴りつけた。しかし男は垢だらけの顔を歪め、じぃっ、と外道丸を舐めるように見る。
「よい面構えじゃ。身から精気が溢れておる。千年先まで名を遺す、一角の人物になろう」
鬼子と呼ばれ、親に捨てられた外道丸である。詰られこそすれ、誉められたことなど一度もない。
毒気を抜かれて動き倦ねる外道丸へ、男は更に言葉を重ねた。
「わしは昔、伯耆国で刀鍛冶をしておってなぁ。常々、おぬしのような者のための太刀を打ちたいと望んでおった」
そこまで言われて、外道丸も悪い気はしなかった。あまりに粗末な格好をしたこの男が、刀鍛冶だと信じてなどいない。しかしその時、外道丸は大層機嫌が良かった。
――この呆けた爺の戯言に付き合ってやろう。
手は柄に掛けたまま、外道丸は男に続きを促した。
「わしの太刀は、人を斬るための太刀じゃ」
「……太刀は元々そういうものだろう」
外道丸は首を捻った。だが男は目を剥いた。目尻が裂けそうなほどに開かれた目に、月光がぬるりと跳ね返る。
「当世の太刀を見よ! あの軟弱なこと、太刀に非ず! 帝も帝よ! 人斬らずして何が太刀じゃ!」
思わず、柄を握る手に力が篭もる。しかし人が寄ってくる気配もなく、男もすぐに平静を取り戻す。
「太刀は人斬りのためにこそある。どのようにすれば、より多く、より深く、より静かに人を斬る事ができるのか。それだけを求め、誰にも追いつけぬ深みまで往ったつもりじゃ。……それなのに、なぁ」
「よく分からぬが……つまりは口惜しいのか」
外道丸が言い終わらぬうちに、男は甲高い声でさえぎる。
「おう! わしは口惜しい。口惜しくて口惜しくてたまらぬ。
わしの太刀は天下に並ぶものなき大業物ぞ。
だというのに、わしに打てと言うたくせに、田村麻呂でさえわしの太刀で斬らなんだ! どころか、斬り捨てるべき相手の命乞いまでしおった!
先の乱もそうじゃ! 純友も、将門も! なぜわしの太刀で斬らぬ!」
極まって、男は地団駄を踏んだ。不思議な事に橋が軋む様子がない。大声に紛れてしまっただけやも知れないと思わせるほど、男の剣幕は凄いものであった。
「なぁ、分かるか? あてるい、純友、将門! きゃつらの、あの千年先にすら名を轟かせるであろう者共の頸を、わしの太刀ではねさせること叶わなんだ、その無念!」
男は猿の如き叫声を上げた。笑いにすら聞こえるような絶叫であった。外道丸は動けずにいた。耳も塞げない。間近で狂ったように叫び続ける男を見ている事しかできなかった。
どれほど続いただろうか。
男はびたり、と唐突に叫ぶのを止めた。見開いた目を、つり上がった口角を、開ききった鼻の穴を、外道丸に触れるほどに近づける。
「おぬし、いいなぁ」
生臭い息が、腐り果てた肉のような臭いが、した。
「おぬしの頸、わしの太刀で落としたいなぁ……」
首に、男の手が触れた。
限界であった。
「わあああぁっ!」
情けない悲鳴を上げて、外道丸は太刀を鞘走らせた。
そのまま男の脇腹から肩までを斬り上げる。
途端、男の姿はふっと掻き消える。襤褸だけが太刀に絡まり、打ち上げられたそれは湿った音を立てながら欄干に引っかかった。
はーっ、はーっ、と肩で息をする。
橋の上に、外道丸の他に影はない。せせらぎのささやかな音と共に、川縁に打ち捨てられた屍体から漂う腐臭が流れている。
静かな夜であった。
額の汗もそのままに、外道丸は転びかけながらその場から走り去る。途中、包みを落としたが、一瞥もせずに京の路を駆けていった。
橋の上には、ただ襤褸のみが残されている。
それもやがて、川風に吹かれ、どこへともなく飛んでいった。
その後、外道丸は大江山を根城とし、源頼光に討たれるまでの間、暴虐と淫蕩の限りを尽くした。
外道丸の頸を落とした太刀は後に童子切と呼ばれ、江戸の頃の試し斬りでは六つ胴を断ち切り、土壇に深く食い込んだと語り継がれている。