翌日の夕方。千沙に頼まれてコンビニへ車で乗せていくと、外の喫煙所に恩師の姿があった。
「あ、川崎先生。どうもっす」
「ああ、真川か。奇遇だな」
川崎先生とは成人式以来だ。三年生から五年生までの担任だった人だがその後もちょくちょくお世話になっており、恩師と呼ぶならこの人だろう。
なんでも親戚回りの途中らしい。本家とその近くの親戚に挨拶をした帰りだそうだ。駐車場を見るとしゃっきりとした印象の女性と、棒アイスを食べる制服姿の男女がこちらを見ていた。会釈されたので、こっちも返しておく。
「奥さんや娘さんにやめろって言われないんですか?」
「娘には随分言われるが、これだけは、な。結婚する前から分煙はしているから勘弁して欲しいが」
「エコーっすよねそれ。くそ安い奴」
「ほっとけ。増税より遙か昔からこればっかりだよ私は」
ぼやきながら、川崎先生は煙草を灰皿に押しつける。独特の甘いにおいが風に吹かれて散った。
その煙が流れるのを待っていたかのように、小さい蝶がふらふらと足元に近づいてきた。見間違えていなければ、教室にいたやつと同じ色と柄だ。
「煙草吸ってたのになんで近づいてくんだよ……」
俺は呻いた。そんなことを気にも留めず、蝶は川崎先生の靴に降りる。距離を取りたくても蝶が苦手だなんてことを先生に気取られたくないし、千沙もまだ買い物の途中だ。
「ルリシジミの雌だな」
じっと蝶を見ていた川崎先生は、いつもの調子で断言した。
「……そんなぱっと見でわかるもんなんすか、オスメスって」
川崎先生はポケットティッシュで指についたヤニを拭うと、ぴったりと閉じた翅を指す。
「翅の模様に違いがあるんだ。こいつみたいに、翅の黒い縁取りが広いのは雌。雄は縁取りが細い」
そんなことを言われても直視したくないし、何より翅は閉じている。それを尻目に、川崎先生は蝶を捕まえてポイと放る。暴れてそこらを飛び回ることを警戒して身構えたが、蝶はふらふらと来た道を撤退していった。
「えっ」
思わず信じられないものを見る目を向ける。先生は煙草をもう一本箱から出そうとして、俺の視線を勘違いしたのかゆっくりとしまった。
「そうそう、吹屋にも同じ話をしたな。どうして柄が違うんだってわざわざ捕まえて持ってきて、今時珍しいと思ったもんだ」
「……吹屋」
俺は虚をつかれる。川崎先生は目を瞬かせた。
「覚えていないか? 吹屋芽理依。一番仲良かったのはお前だろう」
「あ、いや、覚えてますけど」
「この前たまたま会ってな。元気でやっているようだったが」
川崎先生の言葉を、俺はしばらく理解できなかった。
吹屋芽理依はいなくなった。連絡先も何も残さず。
だが、死んだという話は確かに聞いていない。
あれは幽霊なんかじゃない。やはり俺の見間違いか幻覚だ。幻覚だというなら、やはり最近根を詰めすぎなんだろう。よく知らないが多分そうだ。
ならば、腹の底から沸き上がってくるこれは何だ。
「どうした、変な顔して」
「いや。いまどうしてるかとか、ぜんぜん聞こえてこないんで」
僅かだがふるえる俺の声を、川崎先生は別のものとして受け取ったらしい。
「私も詳しく聞いた訳じゃないが、今は東京の大学に通っているそうだ。角が取れたというか、あの頃に比べたら明るくなっていた」
「明るく……」
明るくってことは、つまり、忘れたのか。俺のことを。俺と違って。
なんだ、メリー。
あんなことまでして、結局お前は俺を裏切ったのか。
どうして俺は今そんなことを考えた?
「おい、真川?」
川崎先生の怪訝な顔。
――口をこじ開けられて突っ込まれたもの。潰れた音が脳みそに直接届く。
「まーさん、ここにいたんですね」
小走りに駆け寄ってくる千沙の足音。
――息ができない。訳が分からなくなって涙が溢れた。異物が喉を通り、胃へと落ちていく。取り返しがつかないところまで入り込んでしまう。
「真川くんは、わたしを裏切らないんだよね?」
そして芽理依は俺に、
「いや、ちょっと立ち眩みがしただけで。どうもこっちは涼しいから風邪引いたかもしれないっすね」
はは、と笑う声は自分でも驚くほど普段通りだ。
「大丈夫か?」
「これくらい大丈夫っすよ。ああ、そうそう、こいつは割田千沙っつって、実家の近所に住んでる俺の従妹です。千沙、この人は俺の恩師の川崎先生」
単なる紹介だったのだが、川崎先生は千沙の名字に心当たりがあったらしい。
「あの辺の割田というと、もしかして袈裟次さんのところの?」
「え、はい。おじいちゃんを知ってるんですか?」
「子供の頃、あの辺に住んでいたことがあるんだ。袈裟次さんにはよくしていただいた」
俺はちらと駐車場を見る。積もる話はあるみたいだが、学生服の片割れはしびれを切らしていた。大股で歩いてくる女子中学生を手を振って止めると、川崎先生の肩を叩く。
「川崎先生、そろそろ娘さんが」
あまり表情が変わらないタイプだが、今回ばかりはしまったと思ったのがよく分かった。
「ああ、済まない。じゃあな、真川。割田さんも」
川崎先生が合流すると、女子中学生は先生の腕を引っ張る。仲がいいのはいいことだ。そうに違いない。
「じゃあ帰るか」
後は千沙を送れば終わりだ。それで終わりだ。
俺はみぞおちを強く押さえた。
そうすれば、後はもう取り繕う必要はない。
車の中では小さな音量でラジオが流れている。
俺も千沙も無言だった。俺は喋る余裕もないし、千沙は泣きそうな、でも怒っているような、何とも言えない表情だ。
何の会話もないまま千沙の家の近くに着いた。敷地に入ると折り返しが手間だから、いつも町道と合流する場所に車を止めている。
袋二つ分のペットボトルで両手が塞がった千沙のために、ドアを開けてやる。だから早く帰ってほしい。いい加減、我慢できそうにない。
だというのに、この従妹は怒りを潜め、すがるように俺のあだ名を呼ぶ。
「まーさん」
そう呼び始めたのはいつからだっただろう。俺が中学に上がる前にはもう言い出していた気がする。その辺から、元々甘ったれだった千沙がやけにグイグイ突っ込んでくるようになった。
やめてほしかった。辛かろうがなんだろうが、隠してしまえば俺は普通なのに。
「無理はしないでください」
無理なんてしていない。そう言っても、千沙は納得してくれない。
「いっつも、まーさんは自分のこと隠してばっかりで。お節介かもしれないけど、そういうの、私は……」
「――ありがとう千沙。でも俺は大丈夫だよ」
こみ上げてくるものに耐えながら、俺は千沙の背中を押す。
千沙は目を見開いて、それから俯く。そのまま黙って敷地への道を歩いていった。小刻みに震える背中を見送って、俺は車に寄りかかる。
ざあ、と風が吹く。僅かながら、秋のにおいを含んだ風だ。あの日もこんな風が吹いていた。
台風が近づいて湿った空気と、薄暗い廊下の冷たさを覚えている。
思い出して、しまった。
「……う、ぶッ」
耐えきれなくなって、俺は口を押さえてその場にしゃがむ。押さえきれなかった吐瀉物が指の間から垂れた。片手で車を開け、ドアポケットに入っていたエチケット袋に胃の中のものをすべてぶちまけた。
その日はベランダに置いてあるプチトマトの水やり当番だった。
最新の予想では台風は明日の朝から昼にかけて最接近するとかで、俺はプランターを避難させるために午後にも登校していた。
学校にいた先生は別に育てていた和菊の避難に忙しく、一人で大量にある鉢を玄関に運び込もうと悪戦苦闘していた。終わったら一声掛けてくれと言って、先生はあたふたと作業に戻る。終わったら手伝いに来ようとか、他の先生はいないんだろうかとか、そんな事を思いながら俺は三階まで上った。
さっさと作業を終わらせて、プランターを持ち上げた時に虫を潰してしまった手を洗っていると、鏡に見慣れた上履きが映った。
振り返ると想像通り、芽理依だ。ただいつもきっちりとしていた服はくたくただった。電気のついていない廊下では、俯いた彼女の顔はよく見えなかった。
「メリー? どうした?」
「真川くん、ここにいたんだね」
探しちゃった、と芽理依は言う。力のない声だった。
「……? 調子悪いのか?」
「これ、食べて」
質問に答えることもなく、芽理依はポケットからティッシュの包みを取り出す。俺は素直に受け取って、包みを開けて絶句した。
翅の千切れたルリシジミの死骸だった。
何も言えなくて芽理依と死骸を交互に見る。芽理依は俯いたままだ。
「食べて」
「え、だって、これ」
「いいから食べてよ」
「虫、じゃ」
「食べなさいって言ってるのよ!」
荒げられた声に思わず後ずさりし、足をもつれさせて転ぶ。その拍子にティッシュの中身がはらはらと散らばる。そこにまたがられて、襟首を掴まれ頭を床に叩きつけられた。
手加減のない衝撃に、目の前で火花が散った。
口をこじ開けられ、拾い上げた死骸を突っ込まれて、鼻と口をふさがれた。
砕けた死骸が口腔を刺す。舌に痺れるような苦さが張り付いた。奥歯の間で潰れた胴体は吐き気を催す味を撒き散らした。
そして息苦しさに耐えきれずに、喉が動いた。
飲み込んで、しまった。
意味も分からずただ呆然とする俺にまたがったまま、芽理依は笑った。
「これで真川くんのことをみんな気味悪がるよ。真川くんのお父さんもお母さんもお兄さんも、あの従妹の子も、クラスメートも先生も、みんな真川くんのこと気持ち悪いって言うよ。もう誰も真川くんの話聞いてくれないよ。わたしだけ。わたしだけ見ててよ。わたしはもう真川くんしかいないの」
芽理依は俺の、涎に汚れた口に唇を落とす。
「真川くんはわたしを裏切らないんだよね?」
そして。
途中何度も吐いた。実家に戻ってからもトイレに駆け込んだ。
喉は胃酸に焼けていた。頭は熱を持っていた。ロクにものも考えられず、ただあの時の舌に張り付く痺れがぐるぐると繰り返される。
忘れていた。
忘れているべきだったのだ。
話に聞く吹屋芽理依のように忘れているべきだったのだ。
トイレのドアが数度叩かれる。返事を待たずに開けられて、ペットボトルを持った兄が顔を覗かせた。
「おい、大丈夫……じゃねえな。明日朝一で医者行くか? 当番医どこだったかな」
「……いや、吐いたら楽になった」
渡された水で口をすすぐ。返答とは裏腹に胃はまだ落ち着いていない。今更吐いてもアレが出てくることはないというのにだ。
「何だろうな。中るようなもんはなかったはずだがなあ」
しきりに兄は首をひねっている。それを横目に見ながら、俺はうがいをして水洗レバーをひねった。タンクの上についている流しで手を洗う。
今更言えるわけがない。
十年近く昔の話だ。自分ですら本当にあったことかと疑いたくなる内容だ。言って、何になる。
口を裾で拭って、兄にペットボトルを返した。
「……わり、トイレ占領して」
「気にすんなよ。いざとなったら外のボットン使えばいいし」
「今汲み取り来てもらってねえだろ」
少しだけ笑ってみせた。笑えないが、兄は冗談として言っているはずだ。だが兄は顔をしかめた。ひどく居心地が悪かった。
「……ちょっと外歩いてくる。すぐ戻るよ」
おぼつかない足取りで兄を押しのけて玄関へ向かう。背中越しに兄は咎めるような口調で言った。
「お前さ、少しは周りを信用しろよ」
「してるよ」
即答して、玄関を閉める。思ったより力が入ったみたいで、少々大きな音がした。
ドアに背中を預けて、軒先を見上げた。日が沈んだばかりの空はまだ明るいが、あたりは薄暗い。
その視線の先を、小さな蝶が横切る。
小学校の教室で見てから、ずっと視界にちらついていた。
見るだけで背筋が凍る。そりゃそうだ、と俺は引き笑いを零す。好きだった女の子に無理矢理食わされたのだ。そりゃあ、トラウマにもなる。
足を引きずって、歩き出す。目的地は決まっていた。
瑠璃小灰は俺につかず離れずで飛んでいた。俺が吐き気を堪えるために立ち止まると、蝶も近くの草に止まる。また歩き出すと、蝶も飛び上がる。まるで案内でもしているようだと思った。やくたいもない考えだ。
目的地に着くと、蝶はふらりと姿を消した。空は半ばまで藍色に染まり、建物の輪郭はぼやけて見える。
小学校の裏。校舎と土留めのブロックに挟まれた、それほど広くないスペース。
どれほど辛くても捨てられなかった芽理依との思い出がある場所。
俺は校舎に寄りかかった。焼けた喉が息をする度に痛い。
好きだったからこそあの日のことは許せなくて、その癖嫌いになりきれないからあの日だけを忘れた。その中途半端の結果がこれだ。
今も、いや近況を聞いたからこそ余計に吹屋芽理依のことは許せない。だが、それでもなお俺はメリーの笑顔を忘れられない。
また胃がせり上がる感覚がしたが、吐くものがなにもないためか、ただの咳になって消えた。
『無理はしないでください』
『お前さ、少しは周りを信用しろよ』
二人の言っていることはもっともだ。だけど。
「……してるから、知られたくないんだよ」
呟いて顔を上げた。
メリーが、いた。
「……え?」
メリーはじっと佇んでいる。静かな目で俺を見ていた。
瑠璃小灰が、メリーの上に向けた手のひらの、少しだけ持ち上げた中指の先に降りて翅を畳む。
背中まで伸ばした癖のない髪と、糊が利いた白いシャツに紺のスカート。耳に髪をかけて、柔らかな丸い形がよく見える。
あの日と変わらない姿だった。
辺りは暗いのに、彼女だけははっきりと見えた。
「あ……」
後ずさりしようとして、すぐに背中が壁にぶつかる。そのままズルズルとへたり込んだ。
「真川くん」
記憶の中にある通りの、メリーの声だった。
メリーは瑠璃小灰ごと指を握り込む。ゆっくりと開いた手のひらには翅のひとかけら、鱗粉のひとすじすらついていない。
そして俺の顔へ、その小さい手を伸ばす。
頬にふれた指先は冷たくざらついていた。
「真川くんは、わたしを裏切らないでね」
その言葉に俺は目を見張り、そしてさっきまでの恐怖も忘れて笑い出してしまった。喉が痙攣しているような、ひきつった笑いだった。
吹屋芽理依は忘れているのに、お前はまだ俺にそんなことを言うのか。
「なあ、メリー」
一頻り笑って、顔の横にある手のひらを掴んだ。およそ人の皮膚とは思えない、骨のないふやけた感触だった。驚くよりも、納得した。
「なら俺を助けてくれよ」
メリーは何も言わない。
「お前のことを考えるだけで吐き気が止まらないんだよ」
メリーは何も言わない。
「……お前は、綺麗なままなんだな」
メリーは何も言わない。膝を折って、俺と視線の高さを合わせる。
瞳孔も虹彩もない。虫の複眼を黒目にはめ込んだような瞳だった。
顔が近づいて、俺の半開きの口にメリーの唇が重なる。
――口の中に潜り込んできたのは明らかに人の舌ではなかった。
………………。
…………。
……。
「まーさん!」
怒鳴るような声に俺は顔を上げた。目の前を懐中電灯の光が走り、アスファルトを蹴る音と共に従妹の声も大きくなる。
いつの間にか日はとっぷりと暮れていた。ちょうど新月だから、星は綺麗でも手元は見えない。立ち上がり、スマホを出してライト代わりにしようとしたが、定位置のはずの尻ポケットは空だ。そういえば部屋に置きっぱなしだったっけ、と頭を掻く。
「まーさん! 大丈夫ですか!」
千沙に懐中電灯を向けられ、俺は手で光を遮った。
「――千沙?」
眩しさに目を細めながら見れば、千沙はパジャマにジャージをひっかけただけの格好だ。そんなんじゃヤブ蚊に食われるぞ、と言おうとして、切羽詰まった言葉に遮られる。
「怪我とかしてないですか? 吐き気は?」
そう言いながら千沙は俺の体を懐中電灯で照らした。別に怪我はしていないし、吐き気もすっかり治まっていた。
「つーか、そもそもどうしたんだよ。俺に用事?」
そう訊いた途端、暗がりでも分かるほどに千沙の顔から表情が消え、すっと懐中電灯が下げられた。
やべえと思うも後の祭りである。
「ッ、まーさんが!」
怒鳴り声が校舎と土留めに跳ね返った。俺は耳を押さえ、近所に人家がなくて良かったなあとか思った。……ただの現実逃避だ、もちろん。
「まーさんが吐いた後、外に出たまま戻らないから! みんな探してたんですよ! なんなんですかいつもいつも! 調子悪い癖に俺大丈夫心配するなみたいなことばっかり言って! 心配しねえわけねえだろが! しかも悪化してるしよ! 馬鹿かよ!」
「いっ!?」
片手で襟首を掴まれてガクガクと揺さぶられる。引いた吐き気が戻ってきそうになって慌てて謝るが、やはりそんなものは通用しない。
「ちょ、まっ、悪かった、俺が悪かったからっ」
「謝りゃいいってもんじゃねえんだよド畜生がッ!」
正論である。
千沙はそこで黙り込んだ。威嚇するように肩で息をしていたが、だんだん静かになり、やがて鼻をすする音が小さく響いた。
「心配、した、んですよ」
千沙の声は湿り気を帯びていた。そういえば、甘ったれだった頃はよく泣いていたのに、いつからかそういうこともなくなっていた。確か、俺をあだ名で呼び出したくらいから。
「……うん。いつもごめんな、千沙」
俺は昔を思い出して、千沙の頭に手を置いた。ここまで走って来たのだろうか、汗ばんだ髪をくしゃくしゃと撫でる。
「泣かせてばかりで、ごめん」
「、ひ」
千沙はバタバタと俺から距離を取った。さすがにこの扱いはもう嫌だったかな、と俺は苦笑いするほかにない。
「と、とにかく、とにかくですよ! 帰ります! 帰りましょう! ゲロったまーさん歩かせるのもアレですよね! 車来てもらいましょう! まーさんの家にも電話しないと!」
上擦った声で叫びながら、千沙は早足で歩き出した。その背中を追おうとして、俺は振り返って少しだけ口の端を上げた。
千沙に聞こえないよう、囁くような声で呼ぶ。
「――行こうか、メリー」
彼女は笑うと、静かに俺の耳に止まった。