幼い声が俺の名前を呼んだ。
振り向く。だがこの教室にいるのは俺と千沙だけだ。その千沙は俺に背を向けている。そもそもこの従妹が用事もないのに俺を呼ぶとは思えなかった。
ベランダのすぐ近くは夏の日差しが降り注ぎ、反対に廊下側になるにつれて陰は暗く濃くなっている。その中に人影がある様子もなく、そもそも今日は盆の入りでプールも開放されていないから、児童が学校に来ていることはないだろう。
俺たちのような、母校を見るためにわざわざ先生方に話を通した連中でもないはずだ。他には誰も来てないと、さっきまで職員室で話していた際に先生から聞いた。
俺は小指で耳をほじくりながら、それでも誰かいないかとあたりを見回した。
空耳にしてはやけに明瞭だった。空耳とは得てしてそういうものなのかも知れないが、それにしては、と思う。外でジワジワと鳴いている蝉の声に紛れて、はっきりと聞こえたのだ。
壁の掲示物を見ていた千沙がこちらへ体を向け、ボケッと突っ立った俺に声を掛ける。
「まーさん? どうかしましたか?」
「……ん、ああ」
千沙の顔が怪訝なものに変わる。この地元に残っている幼なじみ兼従妹は、どうにも気が強くて苦手だ。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもな……」
言い掛けた俺のすぐ目の前を小さな蝶が横切った。
「い、うわあっ!」
椅子に足を引っ掛け、バランスを崩して机に手をつく。
手の下で何かが潰れた感触がした。
俺は一瞬フリーズし、手のひらをゆっくりと持ち上げる。蛾がミンチになってへばりついていた。
「ッギャアアアア」
少しでも遠ざけようと手を前に突き出した。目の前にいる千沙は呆れた顔だ。
「なにやってんで……い、やめろくんな汚ねえな!」
気づいてなかっただけかい。
普段から心がけているというですます口調もかなぐり捨て、千沙は後ずさりして逃げる。
「手ェ洗ってこいや馬鹿野郎!」
「洗うさそりゃあな! うわもー本気で死にてえ……」
手のひらを見ないように突き出したまま、俺は手洗い場に向かう。
北向きといえど窓がある教室前と違い、パソコンルームと相向かいにある手洗い場の廊下は薄暗い。腰を屈めて、蛇口をひねる。生ぬるい水に蛾の残骸が流されていった。石鹸を泡立て、粘ついた汁をこすり落とす。
すぐそこで水がシンクにぶつかる鈍い音と、窓越しの遠い蝉の鳴き声とが聞こえるというのに、妙に静かに感じた。
……蝶だけは苦手だ。
特に小さい蝶が駄目だ。あれがふらふらと飛んでいるのを見るだけで背筋がぞっとする。
あれがこの潰してしまった蛾だったら、あんなに大げさに反応することはなかっただろう。それくらい、蝶だけを受け付けない。
手を振って水気を切りながら顔を上げると、鏡の端に赤い上履きが見えた。鏡そのものが低い位置にあるせいで、くるぶしから下しか見えない。つま先は俺の方を向いていた。
なんだろう、と手をブラブラさせながら思う。忘れ物をこの時期に取りに来るとも思えない。もしかしたら、さっきの声はこの子だろうか。
「なあ、どうした――」
振り返って、俺は言葉を失う。
誰も、いない。
俺の目の前にはコンピュータールームの戸と、掲示物の貼られた壁が見える。人の隠れられる場所はない。
冷や汗が背中を伝った。
足音も何も聞こえていなかった。
蝉の声がうるさい。
でも、窓越しだ。近くの足音を消してしまうほど大きい音じゃない。
水の音に紛れた?
だが振り返る時には蛇口は既に閉まっていた。
脅かそうとでもして忍び足でもしたのだろうか。
鏡のある、こんなすぐバレるような場所で?
「……まーさん? そんなに洗ったら手荒れしますよー」
千沙の声が近づいてくる。肩に手が置かれて、俺は初めて体が強張っていたことに気づいた。
「――千、沙」
「……さっきからどうしたんですか? 調子悪いんですか?」
「いや、本当になんでもないんだ」
ほぼ反射的に答えてから、そうだ、と自分に言い聞かせる。おかしなことは何もない。何か別のものを見間違えたか何かに決まっている。先ほどの白昼夢を誰かに伝える必要は、ない。
千沙は何か言いたげにしていたが、やがてため息と共に視線を床にやる。
「……机の方は、こっちで拭いておきましたから。そろそろ引き上げましょう。先生方にもご迷惑がかかりますし」
「ああ」
千沙に腕を引かれて歩き出す。その時だ。
耳元で囁きが聞こえた。
教室で俺を呼んだ幼い声が。
「――真川くんは、わたしを裏切らないんだよね?」
確かにそう、言った。
車で千沙を家まで送り、一番近いコンビニ(車で片道15分)まで足を伸ばしてから俺は実家に戻る。
実家は一応集落の中にあるのだが、家の四方は林と畑に囲まれている。畑のそばの適当な敷地に車を止め、ドアを開けた途端、濃い草いきれが鼻を突いた。まだ日の入りには早い時間だが、太陽は西の山に隠れていて少し肌寒い。
腕をさすりながら畑の脇を歩く。
一人になると、どうしても昼間のあの声を思い出してしまって気分が悪い。季節柄仕方ないとはいえ、先ほどからずっと視界の隅に小さな蝶がちらついているのもそれを助長する。
……ただ、どこかで聞いたことがあるような気がするのだ。あの抑揚で、あの声で、同じ事を言われたような――。
そう考えると、やはりあれは懐かしさ故の空耳で、見間違いかなにかなのだろう。
庭の入り口では兄と甥が迎え火を燃やしていた。今年で小学五年生の甥は俺の姿を認めるやいなや、ぶんぶんと手を振った。その脳天気さに、張りつめていたものがほどける。
「おかえりーまーさん」
「ハハハ千沙のマネはしなくていいんだぞコラー」
「おかえり、それビール?」
「いんや、酎ハイ。甥っ子はコーラでいいか?」
「おお、ありがと」
伸ばしてきた手にビニール袋から出した缶を渡す。俺もボトルタイプの缶コーヒーを開けて送り火のそばに立った。
「どうだった、久々の母校は?」
「なんか変な感じだったな。建物は変わんないのに、掲示物が昔のと今のと混じっててさ。あと流しがすげえ低いの」
そんな話をしていると、さっさと飲み干してしまった甥が、暇そうに俺の服の裾を引っ張った。
「なあなあまーさん、幽霊出た?」
心臓が跳ねた。缶が手の中で音を立てる。
「……幽霊?」
「出るんだよ、三階の手洗い場。なんか女の子が立ってるんだってー。ぼく見たことないけど」
「へえ、俺たちがいたころはそんな怪談なかったよな。鍵のかかった用具室から声が聞こえるとかは?」
「? ないよ?」
「あー、じゃあ今の用務員、あのババアじゃないのか。なあ?」
――兄がこちらを見た。
「……いや、はは、ちょっと寒いから中入ってるわ」
それだけ言って、早足で玄関に入る。後ろから兄の呼ぶ声がする。振り切るために俺は寝泊まりしている客間に逃げ込んだ。
喉は乾き、粘ついていた。缶の存在を思い出して残りを一気に口に流し込む。
違う。
あれは幽霊なんかじゃなくて、俺の知っているもので――。
「……そうだ、メリーだ」
口に出してしまえば、なんとも呆気ない。肩から一気に力が抜けた。
今までどうして繋がらなかったのか。俺は壁にもたれて、そのままズルズルと座り込んだ。
吹屋芽理依は浮いた少女だった。
五年の春にやってきた転入生というのもあったし、メリー、という日本離れした音の名前もそうだった。彼女の両親の不仲は二つ離れた地区にありながら聞こえてくるほどだったというのもそうだ。
なにより、彼女自身が周囲に壁を作っていた。クラスメートの誰よりも整った見た目をしていたが、話しかけても怯えてほとんど返事を返さなかった。リーダー格の女子は生意気だとかいきり立っていたが、当時担任だった先生が折衝してイジメに発展することはなかった。とはいえたった十人しかいないクラスだ。余所者の芽理依はクラスメートから遠巻きに見られていた。
そんな中で、俺は唯一彼女と仲がよかった。
一番の理由は、席が隣だったからだと思う。次に大きな理由は俺がちょろかったからだろう。言い訳をするならば、田舎からほとんど出たことのない子供に、都会から来た少女というのは刺激的だったのだ。
とどめを刺したのは、校舎裏で見た彼女の姿だった。
確か、ゴミ捨てに行った時だ。そのついでに裏口の掃除をしている芽理依に声をかけようとして、それを見た。
芽理依はじっと佇んでいる。いつものオドオドした雰囲気はなく、静かな目で自分の手を見ていた。
鮮やかな空色の蝶が、芽理依の上に向けた手のひらの、少しだけ持ち上げた中指の先に止まっている。
背中まで伸ばした癖のない髪と、糊が利いた白いシャツに紺のスカート。髪を掛けられた耳が西日の中で淡く光っている。
綺麗だと、思った。
ポカンとしたまま見とれた。
多分一生でも一、二を争うアホ面だったと思う。
蝶が指から飛び立ってから芽理依はこちらに気づいたらしく、きょとんとした顔を向けてきた。俺はもちろん盛大にビクつく。何故だがいけないものを覗いたような罪悪感があった。
「真川くん?」
「ふっ、吹屋、その、わり」
逃げようとした途端に手首を思い切り捕まれてつんのめった。
「あ、あのね!」
芽理依は視線を彷徨わせ、少し言いよどんだ。すぐに潤んだ目をじっと俺に合わせる。
「ええと……名前で、芽理依でいいよ。わたしも名前で呼んでいい?」
「え」
脈絡のなさと緊張で、却って平静になった。少し考えて、いつも通りの回答をする。
「俺、あんまり自分の名前好きじゃないから」
潤んだから涙目に変わりそうになる芽理依を見て慌てて付け足した。
「女っぽいってからかわれるから好きじゃないんだよ。クラスメートは、あれは付き合い長いから直してくれないだけで。名字で呼んでもらった方が、俺はうれしいけど」
顔が赤いことが自分でも分かる。芽理依はちいさな口を開いて、ゆっくりと俺を呼ぶ。
「……真川、くん」
「なんだよ、ふき、あー……メリー」
自分よりやや高い位置にある顔は、頬を赤らめて笑みを浮かべていた。
「真川くんは、わたしを裏切らないでね」
それが芽理依の口癖を初めて聞いた瞬間だった。
それからは、だいぶ親密になった。
よく話すクラスメートに過ぎなかった芽理依と、給食は隣同士で食べ、放課後には揃って帰る。芽理依の家は俺の家よりも遠かったが、毎日家まで送り届けてから自分の家に帰っていた。
クラスメートからは、俺だけに関しては冷やかされたりもした。連中とは幼稚園からの付き合いだ。ただそれが、『吹屋芽理依に振り回されている』という俺には理解できない同情を多分に含んでいたということは、卒業式の時にある一人から暴露されるまで気づくことはなかった。
六年次の春に担任の先生は転勤となり、別の先生が担任をしていた。クラスメートとの距離は相変わらずだったが、聞こえてくる芽理依の両親の仲は切羽詰まったものになっていた。
「真川くんだけはわたしを裏切らないよね?」
そう言われる頻度もぐんと増えて、俺はなんだか釈然としないながらもうんと答えていた。
それ以外は普段通りだ。その年に入学してきた千沙について、おばさんからはよろしくとは言われていたが、新入生と最高学年の差は大きい。当時は俺に懐いてよく教室に来ていた千沙も、五月の終わりには来ることはなくなっていた。
夏休みまであと少しくらいの時だったと思う。いつもの帰り道で、俺は更に背の伸びたメリーと並んで歩いていた。
「なー、メリー」
「なあに?」
「夏休みさ、予定ある?」
「……分かんない」
「大丈夫だったらさ、どっか出かけようよ。電車乗ってさ。できれば俺たちだけで」
アブラゼミにツクツクボウシに、とにかく色々な蝉がわんわん鳴いていた。梅雨が明け、ぐんぐんと気温は上がっていた。芽理依のシャツの白さでさえ目に眩しいくらいで、俺は前を向いたままダラダラと話を続ける。
「どこ行こっか。夏だからなー。都会のほう行きたいな」
「……あのね、わたし、もしかしたらだめかも……」
泣きそうな声に、俺は足を止めた。芽理依は目を潤ませて、ぽつぽつとこぼす。
「お母さんがね、荷物まとめてるの。お母さんのおばあちゃんちに帰るって言ってて。お父さんとこっちのおばあちゃんとは、もうやってけないって」
ぐず、と芽理依は鼻を鳴らす。
俺は芽理依の手を握った。その頃にはそれを恥ずかしいと思うこともなく、逆に彼女の温度を感じられて安心できた。
「俺は、メリーと一緒にいるから。もし引っ越しても連絡するし、会いにもいくよ」
「……うん。ぜったい約束よ」
芽理依は目元を拭って、笑った。ふと、その目が俺の背後を追う。
「真川くん、見て、ちょうちょ」
「ほんとだ。ルリシジミだっけ」
連れ立ってヒラヒラと飛ぶ二頭の青い蝶に、芽理依はほうと息をついた。
「恋人同士なのかなあ。……いいなあ」
その横顔が綺麗で、俺は血が昇った顔を慌てて伏せた。
それが多分、俺が覚えているかぎり、芽理依との最後の記憶だ。遊びに出掛けられたのかも思い出せない。その頃の記憶はやけに霞がかっていて、掴むことができないのだ。
夏休みが明けると、芽理依はどこにもいなかった。
何の言葉も連絡先も残さずに消えてしまった。
家に行っても人の気配すらなく、俺はただ喪失感にうなだれているほかなかった。